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熊野

『謡曲三百五十番』No.94

※平宗盛の愛妾・熊野のもとに母の病状の悪化を伝える手紙が届いた。熊野は故郷に帰りたいと休暇を願い出る。作中、熊野権現が勧請された今熊野と同じ名であることに触れている。作者不詳。


季節:三月
ワキ:平宗盛
ワキツレ:従者
ツレ:朝顔
シテ:熊野

<底本:日本名著全集『謠曲三百五十番集』>

 

ワキ詞「これは平の宗盛なり。さても遠江の国池田の宿の長をば熊野と申し候。久しく都にとゞめおきて候ふが。老母のいたはりとて度々暇を乞ひ候へども。この春ばかりの花見の友とおもひ留めおきて候。いかに誰かある。

ワキツレ詞「御前に候。

ワキ「熊野きたりてあらば此方へ申し候へ。

ワキツレ「畏つて候。

ツレ次第「夢の間惜しき春なれや。/\。咲く頃花を尋ねん。

サシ「これは遠江の国池田の宿。長者の御内につかへ申す。朝顔と申す女にて候。

詞「さても熊野久しく都に御入り候ふが。此程老母の御いたはりとて。度々人を御のぼせ候へども。更に御くだりもなく候ふ程に。此度は朝顔が御むかへにのぼり候。

道行「此程の旅の衣の日もそひて。/\。幾夕暮の宿ならん。夢も数そふ仮枕。明かし暮らして程もなく。都に早く着きにけり/\。

詞「急ぎ候ふ程に。これは早都に着きて候。これなる御内が熊野の御入り候ふ所にてありげに候。まづ/\案内を申さばやと思ひ候。いかに案内申し候。池田の宿より朝顔が参りて候。それ/\おん申し候へ。

シテサシアシラヒ出「草木は雨露のめぐみ。養ひ得ては花の父母たり。況んや人間に於てをや。あら御心もとなや何とか御入り候ふらん。

ツレ詞「池田の宿より朝顔がまゐりて候。

シテ詞「なに朝顔と申すか。あらめづらしや。さて御いたはりは何と御入りあるぞ。

ツレ「以ての外に御入り候。これに御文の候御覧候へ。

シテ「あらうれしや先々御文を見うずるにて候。あら笑止や。此御文のやうも頼みずくなう見えて候。

ツレ「左様に御入り候。

シテ「此上は朝顔をも連れて参り。又此文をも御目にかけて御暇を申さうずるにてあるぞこなた

へ来り候へ。誰か渡り候。

ワキツレ「誰にて渡り候ふぞ。や。熊野の御まゐりにて候。

シテ「わらはが参りたる由御申し候へ。

ワキツレ「心得申し候。いかに申し上げ候。熊野の御まゐりにて候。

ワキ「こなたへ来れと申し候へ。

ワキツレ「畏つて候。こなたへ御参り候へ。

シテ「いかに申し上げ候。老母のいたはり以ての外に候ふとて。此度は朝顔に文をのぼせて候。便なう候へどもそと見参に入れ候ふべし。

ワキ「なにと故郷よりの文と候ふや。見るまでもなしそれにて高らかに読み候へ。

シテ文ノ段「甘泉殿の春の夜の夢。心を砕く端となり。驪山宮の秋の夜の月終なきにしもあらず。末世一代教主の如来も。生死の掟をば遁れ給はず。過ぎにし二月の頃申しゝ如く。何とやらん此春は。年ふりまさる朽木桜。今年ばかりの花をだに。待ちもやせじと心弱き。老の鴬逢ふ事も。涙に咽ぶばかりなり。たゞ然るべくはよきやうに申し。しばしの御暇を賜はりて。今一度まみえおはしませ。さなきだに親子は一世のなかなるに。同じ世にだに添ひ給はずは。孝行にもはづれ給ふべし。唯かへす%\も命の内に今一度。見まゐらせたくこそ候へとよ。老いぬればさらぬ。別のありといへば。いよ/\見まくほしき君かなと。古事までも思出の涙ながら書きとゞむ。

地歌「そも此歌と申すは。/\。在原の業平の。其身は朝に隙なきを。長岡に住み給ふ老母の詠める歌なり。さてこそ業平も。さらぬ別のなくもがな。千代もと祈る子の為とよみし事こそ。あはれなれ詠みし事こそあはれなれ。

シテ「今はかやうに候へば。御暇を賜はり。東に下り候ふべし。

ワキ詞「老母の痛はりはさる事なれどもさりながら。この春ばかりの花見の友。いかで見すて給ふべき。

シテ「御ことばをかへせば恐なれども。花は春あらば今に限るべからず。これはあだなる玉の緒の。永き別となりやせん。たゞ御暇を賜はり候へ。

ワキ「いやいや左様に心よわき。身に任せてはかなふまじ。いかにも心を慰めの。花見の車同車にて。ともに心を慰まんと。

地歌「牛飼車寄せよとて。/\。これも思の家の内。はや御出と勧むれど。心は先に行きかぬる。足弱車の力なき花見なりけり。

シテ「名も清き。水のまに/\とめくれば。

地「河は音羽の。山桜。

シテ「東路とても東山せめて。其方のなつかしや。

サシ地「春前に雨あつて花の開くる事早し。秋後に霜なうして落葉遅し。山外に山有つて山尽きず。路中に路多うして道きはまりなし。

シテ「山青く山白くして雲来去す。

地「人楽み人愁ふ。これみな世上の有様なり。

下歌「誰か言ひし春の色。げに長閑なる東山。

上歌「四条五条の橋の上。/\。老若男女貴賎都鄙。色めく花衣袖を連ねて行末の。雲かと見えて八重一重。さく九重の花ざかり。名に負ふ春の。けしきかな名におふ春のけしきかな。

ロンギ地「河原おもてを過ぎゆけば。急ぐ心の程もなく。車大路や六波羅の。地蔵堂よと伏し拝む。

シテ「観音も同座あり。闡提救世の。方便あらたにたらちねを守り給へや。

地「げにや守の末すぐに。たのむ命は白玉の。愛宕の寺も打ち過ぎぬ。六道の辻とかや。

シテ「実に恐ろしや此道は。冥途に通ふなるものを。心細鳥辺山。

地「煙の末も薄霞む。声も旅雁のよこたはる。

シテ「北斗の星の曇なき。

地「御法の花も開くなる。

シテ「経書堂はこれかとよ。

地「其たらちねを尋ぬなる。子安の塔を過ぎ行けば。

シテ「春の隙行く駒の道。

地「はや程もなくこれぞこの。

シテ「車宿。

地「馬留。こゝより花車。おりゐの衣播磨潟飾磨の徒歩路清水の。仏の御前に。念誦して母の祈誓を申さん。

ワキ詞「いかに誰かある。

ワキツレ「御前に候。

ワキ「熊野はいづくにあるぞ。

トモ「いまだ御堂に御座候。

ワキ「何とて遅なはりたるぞ急いでこなたへと申し候へ。

ワキツレ「畏つて候。いかに朝顔に申し候。はや花の本の御酒宴の始まりて候。急いで御まゐりあれとの御事にて候。其由仰せられ候へ。

ワキツレ「心得申し候。いかに申し候。はや花の本の御酒宴の始まりて候。急いで御まゐりあれとの御事にて候。

シテ「何と早御酒宴の始まりたると申すか。

ワキツレ「さん候。

シテ「さらば参らうずるにて候。

シテ「なう/\皆々近う御参り候へ。あら面白の花や候。今を盛と見えて候ふに。何とて御当座などをもあそばされ候はぬぞ。

クリ「実に思ひ内にあれば。色外に現る。

地「よしやよしなき世のならひ。歎きてもまた余あり。

シテサシ「花前に蝶舞ふ紛々たる雪。

地「柳上に鴬飛ぶ片々たる金。花は流水に随つて香の来る事疾し。鐘は寒雲を隔てゝ声の至る事遅し。

クセ「清水寺の鐘の声。祇園精舎をあらはし。諸行無常の声やらん。地主権現の花の色。娑羅双樹のことわりなり。生者必滅の世のならひ。実にためしある粧。仏ももとは捨てし世の。半は雲に上見えぬ。鷲の御山の名を残す。寺は桂の橋柱。立ち出でて峯の雲。花やあらぬ初桜の祇園林下河原。

シテ「南を遥に眺むれば。

地「大悲擁護の薄霞。熊野権現の移ります御名も同じ今熊野。稲荷の山の薄紅葉の。青かりし葉の秋また花の春は清水の。唯たのめ頼もしき春も千々の花盛。

シテ「山の名の。音羽嵐の花の雪。

地「深き情を。人や知る。

シテ詞「妾御酌にまゐり候ふべし。

ワキ詞「いかに熊野。一さし舞ひ候へ。

地「深き情を。人や知る。中ノ舞。

シテ詞「なう/\俄に村雨のして花の散り候ふは如何に。

ワキ詞「げに/\村雨の降り来つて花を散らし候ふよ。

シテ「あら心なの村雨やな春雨の。

地「降るは涙か。降るは涙か桜花。散るを惜まぬ。人やある。

イロエ「。

ワキ詞「由ありげなる言葉の種取上げ見れば。いかにせん。都の春も惜しけれど。

シテ「なれし東の花や散るらん。

ワキ詞「げに道理なりあはれなり。早々暇とらするぞ東に下り候へ。

シテ「何御いとまと候ふや。

ワキ詞「中々の事とく/\下り候ふべし。

シテ「あら嬉しや尊やな。これ観音の御利生なり。これまでなりや嬉しやな。

地「是までなりや嬉しやな。かくて都に御供せば。またもや御意のかはるべき。たゞ此まゝに御いとまと。木綿附の鳥が鳴く東路さして行く道の。やがて休らふ逢坂の。関の戸ざしも心して。明け行く跡の山見えて。花を見すつる雁のそれは越路我はまた。東に帰る名残かな/\。

 

** JALLC TANOMOSHI project No.1 ** ** 謡曲三百五十番集入力 **より
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2018.8.8 UP



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