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秋刀魚の歌

佐藤春夫

 

あはれ
秋風よ
情あらば傳へてよ
——男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食(くら)ひて
思ひにふける と。

さんま、さんま、
そが上に靑き蜜柑の酸(す)をしたたらせて
さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。
そのならひをあやしみなつかしみて女は
いくたびか靑き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。
あはれ、人に捨てたられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の兒は
小さき箸をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸(はら)をくれむと言ふにあらずや。

あはれ
秋風よ
情あらば傳へてよ
汝(なれ)こそ見つらめ
世のつねならぬかの團欒(まどゐ)を
いかに
秋風よ
いとせめて
證(あかし)せよ かの一ときの團欒ゆめに非ずと。

あはれ
秋風よ
情あらば傳へてよ、
夫を失はざりし妻と
父を失はざりし幼兒とに傳へてよ
——男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて
涙をながす と。

さんま、さんま、
さんまは苦いか鹽つぱいか。
そが上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。
あはれ
げにそは問はまほしくをかし。

                  (大正十年十月)

底本:『定本 佐藤春夫全集』 第1巻、臨川書店

初出:1921年(大正10年)11月1日発行の『人間』(第三巻第十一号)に掲載
1923年(大正12年)2月18日、新潮社より刊行された『我が一九二二年』に収録

(入力 てつ@み熊野ねっと

2015.9.1 UP

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