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熊野雑記

佐藤春夫

阿須賀神社

        (一)

 雑誌「東陽」編輯部の牧野吉晴が熊野へ旅行したいといふ。同席の尾崎士郎、富沢有為男、なども同意を表す。時期さへ決定すれば東道の役目は何時でも承はるといふと、時期は何時がよからうかといふ相談であるが、自分には何時とは決めてすすめられない。その四季皆愛すべきを覚えるからである。温かいのを愛して冬出かけるのもよからうし、春ならば熊野とは限らずどこへ旅行したつて楽しいし、さうだ。熊野の旅はやはり新緑の候がよからう晩春から首夏にかけてと答へて置いたが、今年の夏は一身上の都合でどうやら故郷で夏を送ることになりさうな模様である。それなら自然東陽編輯部の諸君を夏季に迎へる都合になることであらう。

さう思つてゐると珍らしく吉井勇 君が牧野君同伴で来訪されて同じく熊野がなつかしいといふ。 同君は三十年ほど以前に一度与謝野先生や北原、茅野両氏などと熊野に遊んだ事があつた筈である。自分は中学へ登校の途上で諸氏の後姿を遠望した記憶がある。吉井氏は熊野がなつかしいのではなく、或はただ往時が追慕されるのではあるまいか。熊野も三十年前まではまだ郷土色が多かつたが近ごろはそれも失はれてゐるらしいから或は吉井氏を失望させるかとも思はぬではなかつたが、序に誘うて置いた。

 四五日経つて保田与重郎が来たので、所蔵の熊野檜扇を見せて、速玉神社の宝物にはこんなのが十枚あるし、外にも櫛笥十一合、その他品々の国宝を吹聴すると、以前からその風景に憧憬してゐたといふ彼も夏になると熊野に行つて見てもいいような口ぶりであった。

 そのうちに郷土に関して何か書いて見よといふこの註文である。ここのところ天下の興味が番く熊野に集中してゐるかの観がある。多分は鉄道が殆ど落成したので、今まで交通不便のため意を果さなかつた向が皆熊野への旅を希望或は空想するものらしい。この稿も編者がそんな読者に幾分の興味を与へようといふつもりであらうか。

 さて熊野の何を書かうかと考へてゐるうちに、先づ思ひ浮んだのは、やはり速玉神社に関する思ひ出である。中学三四年の頃、朝十時から十一時頃の数学か何かの時間をサボッテその境内の石塔籠と桜花とを水彩で写生した事があつた。久しく忘れてゐたのを、近ごろ絵に熱中しはじめた折柄、殆んど毎日郷土の話が出るし、やがて春にならうといふ気分も働いて、殆ど埋没し去つてゐた記憶が発掘されたものらしい。よろしい。何も因縁である。これを思ひ浮んだのを幸に、熊野三山に関して知るところを書いて置かう。今までまだ一度も書いたことがない。実は書かうにもあまりよく知らなかったからである。三山のうちでも那智、新宮なら一とほりは知らぬではないが本宮となると一度も参拝した事がないので、抽著「熊野路」のなかにも三山の事は一向出てゐないのである。

 一口に熊野十二権現だの熊野三山だのといふが、九十九王子を数へるなどは問題でないとしてもせめて三山の祭神ぐらゐは確実に知つてゐるだらうかと自問して見ると、おぼつかない、これではならないとうろたへて参考書を繰つてみると、これがまた詳しすぎて反て要領を得にくい。紀記から見直してかからねばならない始末につくづく自分の無知に愛憎がつきる。

        (二)

 無知と言へば、先夜も増田が三山行幸に要した日子及び道程などを間ふのだが、即答が出来ない。これは時々人に問はれる事柄だから、いつぞやも大略は調べて見た事があつたのに、もう忘れてしまってゐるのであつた。しかしうろ覚えながら里程は大方八十里、これに要する日子は三週間か四週間位であつたやうに思ふ。道は田辺までは海岸づたひ田辺の切目から左折して中辺路の山中を抜けて本宮に出て、本宮からは川船で新宮に下つたとか聞いてゐる。

 後鳥羽上皇が建仁元年十月の御幸は供奉の定家卿によつて明月記に詳記されてゐるがこの時は、御日数二十二日を、宇多法皇御幸は二十七日を要せられた模様で三四週間といふ自分の記憶も幸に大過なかつたらしい。尚行幸の際の御装束なども知れぬではないが今は云はない。

 三山の祭神に就ても旧師小野翁が遺稿「熊野史」(現存の郷土史中信用の置ける)のここぞと思ふあたりを片つばしからひろげて見て、「熊野権現は十二社権現といふて広く知られてゐるが、天神七代地神五代、十二柱の大神を祀り添へたのは、ズッと後世鎌倉時代からのことで、御祭神住熊野牟須美大神(結又は夫須美とも書く伊弉册尊の御事)、熊野家津御子大神(素戔嗚尊の御事)御子速玉大神の三大神であり、その御中にて本宮は家都御子大神を御本社とし、新宮は速玉大神を御本社とし、那智は、結大神を御本社として居る。」

  と大分事は明瞭になりはじめたが、それでも新宮の速玉大神といふのがまだあまり明確にならないので、再び書斎へ駆け込んで新宮町郷土誌を持ち出した。それで見ると、

 速玉大神は御子速玉大神とあって「御子とは伊弉那美尊の御子に坐由也」と栗田寛博士の説を引き更に紀の第十を足引の尾の長々しく引用してゐるのに困却するが幸ひ最後に「以上引用せるところを綜合繹ね考ふれば」と要約してゐるうちから一節を引いて見る——

 「伊弉册大神(結大神)三貴神を生ませ給ひし御後有馬の邑産田のほとりにて軻遇突智神(火の神)を産ませ給ひしが御産の御熱の為に終に神去りまししかば今の花窟の地に葬しまつりしに伊弉諾大神思慕の御余り御殯斂(もがり)の処に追ひ到らせられしかばその切なる御情感通じ伊弉册大神甦りたまひて御見え申されその御時生れさせられしは御子速玉大神にましまし(男)父大神の筑紫に別れ行かれたまひし後もそのままこの熊野に留まらせられ母大神の御傍を離れ給はず、母大神も生れ出でらるるや直に父大神に別れ給ひしこの御子の神を一入あはれに思召されたるは固よりの御事にてありかくてこの御子速玉大神は御兄素戔嗚大神と共に御力を協されて比地方を御開発御経営遊ばされし大なる恵を施したまへるよりこの三柱の大神を熊野の三所大神と称へ奉り本宮新宮那智の三山に斎き祀ることにてあり結大神と御子速玉大神とは必ず一宇中の社に合せ祀り奉るもかかる御由あるためにて、かつ花窟の花祭も御子大神の春に秋にその折折の花を供へ祭られしに本づくにはあらざるかと想ひ奉りて一入男長くありがたく感じ奉るなり」

 引用は少し長すぎたが、これで三山の祭神とその由来とは大に要を得たつもり。古来三山に対する皇室の尊崇の篤い所以も自づと明かであらう。これからこれらの神社の古風に特色の多いお祭の事を記したい。

        (三)

 何しろ、神代の事ではあり、学者にも諸説がある模様ではあるが、出雲と熊野とは関係がよほど深かつたらしい。言はゞ出雲の殖民地ともいふべきものが熊野にあつて、それの統治をして居られたのが熊野の三大神で、その鎮まり坐したところが所請熊野神邑である。御三神は皆深く民を愛し給ひ、就中家津御子大神と称へ奉つた素戔嗚尊は韓国から数多の樹種を将来し給うて殖林の事を教へ給うた。家津御子の御称も「木(け)つ御子」の義であるとか。かくて木の国は出来、わけて熊野はその南方に位して樹木の繁茂に適した。熊野の熊は古茂累の義で樹木蓊鬱の義であらうといふ。土民の永く三神を敬慕し奉るも赤故ありと謂つべきであらう。神武天皇の御東征に当つて熊野がその上陸地点となり建国の御事関聯の多いのも、赤前述の三大神の威徳を慕ふ土民がゐたからであつたらう。

 三大神は一説には、後に説く神の倉に天降つて、阿須賀、有馬、などに鎮まり坐した後、暫らくは石淵の谷に鎮坐せられたらしい。何れも神宮から程遠からぬ辺である。石淵の谷から三神を本宮へ祭り奉つたのは崇神天皇の御宇であつた。新宮は景行天皇の御代に創祀された。本宮、新宮の称はその創祀の時期によつて呼ばれるのでやがてそれが地名にまで転じたものらしい。三山のうちでは那智がやや遅れて仁徳天皇の朝に海内第一と称せられる大瀑布が発見されると同時にここにも同じ三神を祀り奉つた。那智の勃興によつて当時は新宮本宮をも凌駕する勢を示してゐたとか。

 花の窟は同じく熊野のうち三重県に属する南牟雲郡有馬村(木の本町付近)にあるが、自分はまだ参詣した事はないが、聞くところでは聳立する巨巌の高さ百七十尺に及ぶ下に拝所の設があつて、祭は毎年春秋二期、二月と十月との二日に、五色の菊の造花を巌頭に懸け渡した注連縄に挿み飾つて祭るので、花祭の称があると聞く。

  神祭る花の時にやなりぬらん
    有馬のむらにかくる
      木綿幣(ゆふぬさ)(夫木抄)                 光俊

 ここに祀られた伊弉册尊が火の神を産んでために神去られた場所といふ産田神社も奥有馬にあると聞くが自分は未だ知らない。

 

 自分のよく知ってゐるのは、新宮の速玉神社のお祭である。これを語るとなると、どうしても幼少年時代の呼び方に従つて「権現さまのお祭」と呼びたくなる。このお祭は旧暦の九月十六日、我々が知るやうになつてからは新暦の十月十六日であつた。あの地方ではまだ幾分暑いのに夕方の冷気を惧れてお祭には大ていはじめて秋の袷を着る。この日のお祭はみふね祭と呼ばれて水上のお祭である。この前日の十月十五日には速玉神社の摂社で「おあすかさま」と呼び慣はしてゐる阿須賀神社のお祭があつて、これは御舟祭に対してお馬祭と云つたかと思ふ。何でも「おあすかさま」はその翌日の御舟祭のためにお留守になる権現さまのお留守番にお出かけになるのをお馬が迎へて来 るのであるといふ俗聞の伝である。

 巨巌の頂にある注連縄に花を飾るといひ、お祭の間、別の神がお留守番に御座られるなどもすべて甚だ古雅で掬すべき趣ではないか。お祭がまたそれにふさはしく有難いのだ。

        (四)

 阿須賀神社は新宮市の上熊野地にある。社名は飛鳥川の南の崖にあるからその名をとつたものと思はれる。祀神は速玉男命と事代主命とであるといふ。事代主命は武勇は優れた神であつたから武勇を以て速玉大神を助け奉つた事もあつたので、お祭のお留守をも承るものかと思ふ。因みに都下の飛鳥山も熊野の飛鳥山がもとであることは柳北の碑文でも明かである。

 十五日の午の下刻、速玉神社の神馬……奥州産の白馬を飾り、馬背には徐福が献納したと伝へてゐる神宝の壺鐙を懸け、宮司以下の面々が整列して神馬に従ひ阿須賀神社に向ふ。かくて酉の中刻今度は速玉の神が神馬を召されて市の外れにある新飯山のお旅所へ神幸され檜葉で造られた仮殿に入られる。庭燎(ていりょう)を焚き神楽を奏し宮司は庭燎の光で祝詞を奏し禰宜(ねぎ)主典(しゅてん)等は手を連ねて左へ廻る事三度にして退く。次に火上(ほあげ)と称して火を減じて式が終り還幸は戌の下刻である。御旅所の祭儀は極めて素朴古雅、何事のをはしますかと森厳にさびしい趣きのものであると聞いてゐる。それ故女子供は当日こんな場所でこんな祭儀があることなどは多く知らない。実は我等も後年これを聞知した位なもので、十六日の御舟祭の方ばかりが一般には知られてゐる。

 十六日の祭礼は前日とはうつて変つた賑やかなもので付近の町村からも見物が殺到する。

 この日申の刻、足利義満寄進といふ神輿を三十六人の壮丁が神輿舁ぎに奉仕して、御幸町通を通つて熊野川の岸に到り、神霊を朱塗の竜頭の神船に還すと、神船は二艘の諸手船(もろたふね)に曳かれて熊野川を沂ること数町で御船島に到る。島を左から三度徐々に廻る儀式がある。島の上には神供酒にそへて三掛の魚を切つて供へる式がある。(魚は大島村から献上するのが古例であるとか。)これより先に神船が御船島に到るのに供奉して、別に九隻の早舟がある、この九隻が神船が島を廻る前と後とに先を争うて島を遭ぎ廻る儀式がある。この壮観を見るために当日人々が集まるのである。

もとはこの時の競漕の結果の順番に従つて熊野川口から江戸に炭船を出す優先権が新宮城主から与へられてあつたもので早舟も悉く舟町の船持衆から出したものであつた。現今ではこの権利も消滅し、早舟も市中の各町区から出してゐる。この御舟の式は、太古出雲から霊神が諸手船で渡来して遷座し給うた古実を伝へるものであらうといふ。古例として当日諸人を出す対岸の鵜殿村は出雲からお供して来た者共が嘗て住んだと語り伝へられてゐるし、御舟祭は出雲の美穂神社の「国譲りの祭」にも似てゐるといふ話である。

 尚当日のお祭には一つの奇異なものが、御舟祭の供奉の八人の諸人のうちに、赤い衣に黒い帯をしめ、後に折れて垂れた長い黒頭市をかぶつて、女装した一人がゐて小さな櫂をあやつりながら「ハリハリハリツイセ」と節おかしく歌を唱へて、さな がら波を叱り制するやうな有様を示す踊をするのと、もう一つは神興の渡御に先だつて飾り立てた神馬の背上に置かれてゐる神幸に列する少女の人形である。金襴の狩衣に綾蘭笠を冠り、 菅の穂十二本に熊野午王の神符十二枚挟んだものを腰に挿てゐる。俗に正政(しやうまん)の一物(ひとつもの)と呼んでゐる。

 これは出雲から遷り来られた御途次、御道しるべ申上げた草刈少女に擬した人形で、さればこそ神輿に先頭してゐるのであるといふ。

 尚神倉神社燈祭や、及び同じく速玉神社の夏祭や夫よりも那智の扇祭など何れも御舟祭に劣らぬものを記すつもりであつたが紙が尽きたから次の機会にしよう。

底本:『定本 佐藤春夫全集』 第21巻、臨川書店

初出:1937年(昭和12年)2月24日から27日まで『都新聞』に4回連載

(入力 てつ@み熊野ねっと

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2015.9.16 UP

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