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紀南の冬

佐藤春夫

 

 山紫水明といふ形容詞をそのまゝの自然を具へて、海青く、空青く太陽は温かに、食べものにも海幸山幸の多いわが故郷紀南の地は四時いつの気候につけても事毎に恋しくない時はないけれども、東京に雪の気を帯びたから風のはじまるころには、わけても望郷の思の切ないものがある。郷関を出でて二十数年になるが、今だに他郷の冬に慣れる事の出来ないのは困ったものである。誰やらも言つたごとく故郷の人情は更になつかしくないのに、どうして故郷の山河がかう慕はしいやら、二十七年住みなれた都よりも、僅に十八年間生活した田舎の方が好いのだからいかにも不思議である。

身長五尺五寸で、体重は十二貫に足らぬ皮からすぐ骨といふ体質では、暑さなどものの数ではないが、寒さは直ぐ骨に徹るから大禁物なのにもわけがあつた。 それが今は十七貫に近い肥満なのに、それでもやはり冬は参る。先づ不眠症が秋冷と一しよにはじまる。
     秋㡡失睡人將老(あきがやにいねがてのひとおいんとす)
と、既に冬の威に怯やかされはじめるといふのも、冬に対抗する訓練が幼時から一向出来てゐなかつたためであらう。思へば故郷で育つた十八年間に降雪なら二三度ぐらゐは見たおぼえもあらうが、積雪といふものはついぞ一度も知らない。ちらちらと落ちて来る雪片は殆んどそのまゝ地上で消えるか、それでなくても地上に足あともつかないほど落ちると、それきりだから積雪が見られないのも道理であらう。

せいぜい寒かつた思ひ出といへば、中学校への行きかへりに新宮市中の川風の通る道すじの町々や、千穂が峯颪のふきつけるところぐらゐ。それも駆け足で通りすぎると、二三丁目で息の切れるころには汗を催すといふ程度だから、冬の感じはどこにもない筈である。新宮中学校では外套は無用なおしやれとして生徒等に一切禁止してゐたのは当を得た処置である。新宮は川ぞひのせゐか紀南では幾分寒い方であらう。それでも或る人が東海道三保の暖かさを讃美してゐるのを聞くとせいぜい新宮程度らしかつた。僕の知つてゐるところでは伊豆の熱海がまあ紀南と近い温かさであらう。冬は知らないが初夏の頃から推察して別府あたりも紀南位であらうか。併し九州も長崎や鹿児島は到底紀南程温い冬ではない。土佐は知らないから比較にならない。熱海の冬ばかりではなく、一帯が紀州と伊豆では地勢の関係から、類似点が多いやうである。

僕は東京の人に紀南の紹介をする場合は多く伊豆半島を例に挙げる。両地とも先づ日本の伊太利ともいひ度いところである。ミニヨンのやうな美少女は見かけないとしてもレモンの花は咲く。惜しむらくは、新宮権現の速玉神社の国宝の数々と、応挙、盧雪などを数点見るだけで、美術といふ点では遠く伊太利には及ばないらしい。それでも伊豆が唐人お吉まで土地の売り物にしなければならないのに比べるとまだしもわが郷土の方が芸術に名所旧蹟に恵まれた所が夥しいと、ついお国自慢が出る。

 紀南と言つても美術や旧蹟でなく、単に冬をいふ場合にはど うしても潮の岬を廻つてしまはないでは本当ではあるまい。しかし新宮まで行ったのでは少し行きすぎる。尤も新宮でも川風さへ当らない場所なら中し分はない。自分の育つたのは丹鶴城下の、北に山を負うた山懐に、真南に一間の窓を持つて入り際まで日の当る一室で、まるで温室であつた。冬も無論日中は火鉢を用意しないですんだ。室外でも外套が無駄だから、この室では尚更火鉢は空気を悪化するだけの費であつた。牟婁の名にそむかないわけである。一たい郡の名『牟典』は温室のむろの意をとった当て字であるとか、ないとか学問的には異説もあらうが、しかし事実としてなら更にこぢつけにはならない。

 紀の国のむろの郡にありながら君とふすまのなきぞかなしき

とかいふ古歌があつたが、集の名も作者も今はうろおぼえである。紀南の冬なら、まづ那智山下を中心にして話したらよからうか。つまり勝浦まで行つてその附近で好適なところを物色したらといふのである。勝浦の町内でも港外の太地やその附近のどこでも温かさや食味には事欠くまい。宿の親切さへ見つければ。

 何しろこのあたりでは十一月に水仙の花が咲く。先年故郷——下里町高芝で冬を過した時、亡友芥川に南国通信と題して、

 その一に——
     炉開きと申す言葉は知らずそろ
 その二に——
     残菊に水仙いけて紅茶かな

とありのまゝを駄句つて一粲を博した事があつた。老父の友人で画を好くする仙台の人某氏が、偶々紀南に遊んで風光の明媚を愛するあまり思はず■を新宮にとゞめて久しく滞在し、十一月に咲く水仙を見て、この辺の水仙はまことに晩い、自分の地方では水仙は二月三月? に咲く花であると、語ったといふのが、わが家の語り草になってゐる。たとへば円形の競争場であまり早すぎるのが、優に一周だけ衆を抜いて、晩すぎるのと接近して一見どちらが早いかわからなくなったやうなものであらう。それを仙台の衆が飽くまで自分の郷を中心にして語ってゐるのが倫快ではないか。

熊野では十一月に咲く水仙を仙台ではその翌年の二月か三月かに咲くと気がつかなかつたのである。菊が咲き尽さないうちに水仙が咲く、相ついで梅が蕾む、山椿などはいつしかもう盛がすぎて来る。朔風を待たずに追々と春になるありさまは、秋と春とがくつついてしまつて冬なしである。事実、石垣のすみれなどは十二月、一月によく見かける。それ故、紀南の冬とは題したけれど、実は紀南には冬なしであると言はねばなるまい。暦の上ばかりでなく、事実として年の内に春に逢ひたい人は紀州熊野へおじやれと申すわけである。

     春かすみ家は徐福墓畔に在り

といふのは別に句のつもりではない「家在徐福墓畔」といふ印文に春霞と冠せて見ただけのものである。

 紀州みかんも牟婁まで来てしまつては場違ひになる。牟婁は夏みかんの地である。それでもところどころに柑橘園はある。老父は以前、仏手柑を栽培して鉄斎に贈つて喜ばれた事もあるが、仏手柑の栽培はさすがの熊野でもあまり楽ではなかつたらしい。一体に霜を厭ふ柑橘の属のなかでも、仏手柑が最もそれが著しいらしい。霜を厭ふ柑橘の園は常に最も暖い場所に選れてゐるから、その樹下に腰をおろして、梢に熟し切つたみかんの残りものを貪りながら、枯れ尽さぬ草の間に余生の夢を日向に歌つてゐる虫の音に耳を傾ける。そのかすかな声の断へ間に程近い海岸の波濤を聞き入りながら身の閑散を愛し、日向ぼつこをしたならば、他郷の人もそぞろにこの地を仙郷と信じて、むかしむかしそのむかし、三千の童男童女を従へた秦の方士が移住したといふ伝説を、なるほどと感ずるに相違あるまい。

先年支那に遊んで、西湖の湖畔にさる老人と久仰。先生今次来遊目的。とか専在風光、艶羨先生詩酒生涯などと、怪しげな筆談をしてゐるうちに、先生郷国と問はれて、家住蓬莱山下徐福墓畔地と記すと、大きくうなづいて、自分ももと山東の産だから、多分祖先は同一であらう、といふ意を記したので奇異に感じたが、支那人は伝説によって、日本人を山東の移民の末孫と信じてゐる人が多いといふ事は後に聞き知つた。まさか日本人全体を徐福の従へて来た三千の童男童女の末裔と心得てゐるわけでもあるまいが。それにしても紀州の捕鯨の法は徐福の党が伝へたものだといふのは支那ならぬ紀州に於ての伝へである。

 捕鯨で思ひ出したのはわが郷の冬の食味である。秋刀魚を塩壺のなかへ切り込んで貯蔵して、焼くと燻製のやうな赤い色を呈するものなどは佳味ではあるが、本来惣菜だから客人に供するものではないので、他郷の人は生涯その珍味を知らないで終るであらう。一たい地方の宿屋で、地方的な食味を無視して材料の関係も考へないで、まづい東京流の料理を食はせて得意、食ふ方でも満悦してゐるのは双方共不見識千万な話である。木曾山中で色の変つた鮪のさしみなどを出されるのは閉口。木曾はよろしく岩魚やつぐみであるべく、熊野などもせめて鯨ぐらゐは客膳に供してほしい。尤も近年は鯨の美好なものも得がたいかも知れないが、蕪骨をさんまの腸につけたのなどは用意して置けない事もあるまい。

東京でも蕪骨のある家があつたが、折角の珍味が酢味噌か何かであつたので甚だ失望したといふのは下村悦夫の談であつた。尤も折角苦心して出しても客が真価を味へないで、へんなものを食はせると箸を取らないでも困りものだが——。思ひ出すのは二十年程前、長崎の宿で五島鯨の赤みのところを御馳走になって、非常に喜ばしかつたので、お代りを註文して驚かれた時の事、鯨を喜んでお代りまで求める客はめづらしいと、主人も非常に満足であつた。自分が生国を打明けたので一切明白になつて主客楽しみ笑つたものであつた。この宿には年末年始の二十日ばかりゐてお正月には特有の長崎のお雑煮やら、手軽ながら、しつぼく料理のふるまひもうけた。このささやかな宿を今だに印象あざやかに思ひ出すのは、ただ僕が食ひ意地が張つてゐるためばかりではあるまい。

 太地ならも本場だから、勝浦、太地あたりで、獲れさへすれば種々な鯨料理を命ずるのも一興であらう。これも紀南の冬のものである。

 或る時、当時勝浦に別荘を持つてゐた一友人の離れの二階で、午後を談笑しながら南受けの、あまりの温さについうとうとと睡気がさして無実の罪を疑はれた事もあつたが、科は偏に温い太陽のせゐであつた。こんな温度が僕には好適この上なしだが、のぼせ性の体質や血圧の高い人には温かすぎるといふ非難がないとも限るまい。それならそれで北向の部屋を選ぶべきである。これでも障子に破れさへなければ、火鉢の火が絶えても懐手だけで大丈夫である。手を突き込んだその懐にふくらんだ財布を握る諸君は、或は湾内の七湯を巡つて日を消すとも、或は熊野の主都新宮市をさして、柳暗花明の一郷に佐渡の土の絶えぬ間を、別に温柔郷を求めようと何分よろしくやりたまへである。

 それはともかくとして、苟も教養を欲する人士が、時の冬たると春たるとを問はず、熊野の地に遊んだ機会には必ず見逃してならないものは、速玉神社の国宝の数々である。願事のほどは知らないが数百年前の上﨟が黒髪を切つて願をかけた、その黒髪の幾束が、国宝になつて保存されてゐるのもロマンチツクであるし、それ等の同じ時代に同じく貴婦人達に愛用されたらしい数々の檜扇や、装束、さては櫛笥など、その持主の見ぬ面影を徒らにろうたけてしのばせるよすがとなるばかりでなく、それ自体がその持主にもをさをさ劣らず美しく、史上有数の美術品である。これあるがために紀南を国内の伊太利と称するも不可なしとするのである。十年程前、自分が帰省中、熊野の美術を見学のためにわざわざ来た美術研究者を案内して、その意見を聞いた事があつたが、檜扇櫛笥など、皆聞きしにまさる逸品で目を驚かすと絶讃してゐた。

就中櫛笥(もと十二個あつたらしいのが今は十一個ある)の蒔絵の図案を推賞してゐた。櫛笥は鏡台や手鏡の匣、さては櫛など結髪用品や頭の飾など一式、大小各品を皆同一の題材で統一的に取揃へて装飾されてゐるのである。例へば柑橘が笥の図案になつて、その大粒のものが見事な螺鈿で浮き出してゐたのなど、今も記憶に新らしい。これ等の図案一式は頻る異色のあるもので、平安末期と室町初期との中間に位して、写実と様式化との中庸を得た調和の、独特の美を発揮したものは他に類例もないので、仮りに新宮式とも呼ばゞ呼ぶべき宇内の珍、世界の至宝といふ感激的な呼び方がその道の人の批評であつた。

 これ等の品々は雨天でない限り拝観できる筈である。紀南の冬は総じて晴天つづきである、この点も好都合であらう。たゞ有志の人士は心して午も少し早目に出かけるやうにでもしない事には、品数の多いところへ、山かげの神倉はさなきだに暮れやすい。冬の日は早くかげるから落ちついて拝観することも出来まいかと思ふ。

底本:『定本 佐藤春夫全集』 第21巻、臨川書店

初出:未詳
1937年(昭和12年)11月発行の『むささびの冊子』(人文書院)に収録

(入力 てつ@み熊野ねっと

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2015.9.10 UP

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