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帰郷雑記

佐藤春夫


 暑気と無聊とに堪え兼ねて、今日も六兵衛小父の舟を貸り出して橋の下かげできのふのつづきを描くことにした。何しろきのふは夕方の光線の変る最中に無理にはじめて少し興が乗り出すと夕方になってしまつたのだから、もう一度丹念に筆を入れなくてはなるまい、寧ろ新らしく描き直した方がいいかも知れない。同じ場所を二度描くのは愚だし興味も乏しいが、荷厄介にして画架を持つて来なかつたおかげで新宮へ行つてそれを貸りられるまでは、対象よりも足場のいい所ばかり捜してかからなければならない。

それで或は掛茶屋の窓とか、人の家の涼み台などを利用する始末である、自家の窓に適当な風景があると申分なしだが、生憎とどちらを向いても何もない。最後に思ひついたのは舟を物影へ乗り出して風景を求むる策であるが、これも条件を具へたのは少いから自然同じところを繰返すやうな仕儀になる。この風景は河の堤にある一本の老松とその影の古びた小屋、さうして梢遠くにもう一本これは手前のものよりずっと若木らしい枝ぶりの松ともう一度その下に二三の家、この二軒の小家をつなぐ河の土堤の上の路——石垣の上にあつて夏草に埋つてゐる。

秋が立つたとはいへこの暑さに夏草に相違あるまいのに、何だか白つちやけて生気がない。枯れかかつた秋の草みたいだ。ひよつとすると穂が出て花みたいなものでもつけてゐるのであらう。正面は海とこの川とを堺した砂丘である。つまり川口がつまつゐみる。沼のやうに静かな水の上に倒影が浮んでゐる古風に静かなあまりまとまりすぎた景色ではあるが、砂丘の上に防波堤の一角が現れ出てゐるところに幾分の見どころがあると思ったから描きはじめたものである。それに斜陽(はすひ)を受けて一帯に絢爛でよかつたがあんな光線は三十分とつづくものではないから描かうといふのが無理であつた。直さうと思つて持つて来たのは妙にいぢけてゐてものにならない。

新しい画布を思ひきつて使ふ事にする。八号風景で、これが今度持つて来た四枚のうちの最後のものだから容易に使つてしまひたくないのだけれど致し方もない。それに新宮まで出れば売つてゐるのだからそのうちに用意して置けばよいわけである。帰着して今日で五日目、さうして画架の用意が無いの何の言ひながらもう四枚描いた。描かない日は到着の日だけなのだ。きのふのは第一老松のデッサンが間違つてゐたので主要な樹がせせつこましく序に全体がいぢけてしまつたのである

対象を見つめてゐるうちに舟が動いてしまつたのか座り直さなければならない事になった。序に海水帽も邪魔だから脱ぎ捨てた。座り直し帽子を捨ててやりはじめたらデツサンだけは先づ片づいたらしい。それはいいが帽子を脱いだせいか、日がかんかん照りつけてかなはぬ。気がついて見ると舟は上げ潮に押されて橋の影よりず つと上へ押され出てしまってゐる、竿を取つて無性だから腰を下したまま舟をもとの通りに直さうとしてゐると六兵衛小父は岸から見てゐたものか

「橋杭い結へつけて置かんし。縄ぎれやあつたぢやれ!?」
 と呼びかけた。言葉がよく聞きとれないのでまごついてゐると
「見えんけ。どうれ、わしや一つ行つてあげるに」
 小父は流れ木を新に割つてゐる仕事を捨てて来てくれようとするのを辞退して、幸目の前に見つかつた棕櫚縄の切れで舟を橋杭へ結へつけた。

 さうして立つた序に舟をうまく影へ寄せて置く。おかげでもう舟は動かない。涼しくなつた。暫く専念に描きつづけてゐる。ちよつと境遇を忘れてゐると、ポチヤリと水音がして見るとイナか何か小魚が水中で跳ね上つたものらしい。うれしい気分である。また日が射して来た。大分時が経つたから日ざしが廻つて来たのであらう。帽子を冠つて描きつづける。なるほど老松などは大分きのふの光線に近くなつて来た。防波堤の垣根に日の射すのはまだ大分間があらうが。

「あれや下地の松け。そぢやの」
「そうぢやの、浜の方まで描いてあるげ」
「今描いたあの丸い自いものは何ぢやら?」
「あれかい。あれや、だあ、堤防ぢやれ」

 不意にそんな話声がして来た。自分の絵に就いて言つてゐる。あたりを見まはすが誰もゐない。一体この地は自分の父祖の地ではあるが自分の生れ故郷ではない。土地の言葉も大たいは判るが耳に熟しないものもある。近頃は小学校などで方言をなるべくやめさせる方針のやうであるが、方言のなかにはただ耳なれて懐しいばかりでなく伝統のある言法が多いのだから、一途に禁止するよりも寧ろその根本を明かにして、国語の統一は将来自然の陶冶に待つのはどういふものであらうか。

何も東京の方言だけが立派なわけではあるまい。あれは三河訛りと関東の方言の組み合せで粗野な近代語である。便利ではあらうが、ニユアンスに乏しいあまりいい言葉とも思はれない。寧ろこの地方の方言などの方にいい日本語があるのか知れたものではない。熊野の地は古来上つ方のお成りの機会が多かつたせいか思ひがけない句法が多い。新宮川の上流地方には「下さい」の意味を一々「たもれ」と言つてゐるところがある。説くまでもなく賜はれの約である。また貴様といふ意味でよくアゼと言ふもとは「吾兄」に相違ない。「あれや何じやら」「あれはだあ」などは新宮方面でも言ふが内容はない言葉で、ただ言勢に抑揚を与へる点で文語の「いざ」に似てゐる。もしやそんなところから出たのでもあらうか。

また頻りに水音がする。魚の跳ねた音とも違ふ。あたりを見まはすが何もゐない。ぱらぱらと橋の上から投げた石つぶてが水の上に落ちて静かに水面を波紋でみだす。さつきの水音もこれであつたと見える。ぐる〳〵見まはしてゐると、橋の上から堪えかねたといふ風な忍び笑が浅れて来た。成る程さうかと見上げると、十二三の腕白が二人欄干に身を乗り出して橋の上から舟の中を見下してゐる。

気がついて見ると舟は再び押し上げられて橋の下からはみ出してゐる。舳を結ひつけられた舟は櫓だけ廻つて出てゐるのである。橋の詰にある家の二階からも娘らしいのがのぞき込んでゐたが、こちらで気がつくと直ぐ首をひつこめてしまった。もう一度、竿を取って舟を橋の下かげへ追ひ込むあと一息といふところで仕上げである。沖の方に凝り集つてゐる雲の暗さと遠さとが容易に現れない。一工夫なからざるべからずと努めてゐると、

「父(ちゃん)、父や。どこにゐるの? お婆さん、父を見ておいでと言つた」
 と先づ自分を呼んでから話しかけるものがある。方哉が橋の上に来たのである。この子はその好みで私を「父、父や」とひとりで呼び慣はしたのである。母の事は何故か「やあやん」と呼ぶ、聞けば母の地方の方言であるといふが誰も教へもしない聞いたことのない言葉を自分で言ひ出したのが不思議である。

 自分は竿を取つて今度は橋の影から舟を外へ出して
「方や、父は今直ぐおうちへ帰るよ。お婆さんに父はおとなしくひとりで絵を描いてゐたと教へてあげて下さい、そのうち父も直ぐかへりますつて」

 お婆さんはやはり心配して見に来させたと見える。今日は六兵衛小父は忙しいから舟は貸せるが操ってやれない。といふのをつい橋の下ぐらゐ、人に頼む事はない汀からほんの五六間、といふのに、ひとりでは危いと心配するのを潮が来てもせいぜい背の立つところといふのに老婆心はまだ休まらなかったものと見える。もう五十に手のとどきさうな子供を今でも方哉並みに思つてゐてくれるのであらう。をかしくありがたい。

 方哉は得心して帰り際に
「今度の絵は気に入つて出来たか」
 と言つて行つた。きつとつれて来たやあやんの言葉の取つぎであらう。

 今度の絵もやはりどうも気に入つて出来ない。小さくまとまつて月並な絵ハガキ風の風景で駄目である。荷風先生は大洋の旅のなかで紀州海岸の遠望を記して「荒涼たる」といふ形容詞を与へた。火成岩から成った山に接したこの海岸は正に荒涼たる海岸に相違ない、自分は遠望したことはないけれど遠くになる程その印象が一層荒涼たるものになりさうに思へる。荒涼たる海岸のところどころに思ひがけなく女性的に優美な曲浦を蔵してゐるのが紀州海岸の一特色であらう。和歌浦をその最たるものとして、玉の浦、宇久井の浜、湯川湾(自分が近年ゆかし潟と名づけた)などがそれである。

かういふ都雅なのは全く日本絵風の風景でそれはまたそれでいいとしても、この下里の町は太田川畔にあって川奥には大して深い山もないし川も川口がつまってゐる。明治以前は材木木炭などの集散地の一つとして地方に知られた邑であつたが近年益々振はなくなってしまつてゐる。風景も残山余水ばかりでとんと見るに足りない。自分の今夏の旅は先日東京で病んだ老母が郷里で健康を回復しつつある状をまのあたり見ることと、その老母の孫に初旅をさせるためであるから先づこの地に足を停めてゐるが、もし南紀の風景を描くのが目的なら自分は大島の外海に面した方面——まだ噂に聞くだけで見た事はないが——を第一に踏んだ筈であるし、自分の生ひ立つたところを方哉に見せるつもりなら新宮市へ行かなければなるまい。

古座、潮岬、串本、大島新宮などは、富沢や保田などが来たら案内をして行きたいと待つてゐたが、今になつても見えず何の便りもないのはもう来る機会を逸したのであらう。自分も老母の健康は寧ろ旧に倍したのを見て安心したし、残山余水などと憎まれ口を利きながらもここで、持ち合せの画布はみな使つてしまつたから、この稿を終り次第、先づ鍾愛の地湯川をふり出しに新宮へ行つて画布を調へたり、見物したりしなければなるまい。権現さま城山など幼なじみの山水を妻子に紹介するのも楽しみだが殆んど二十年近く見たことのない土地がもう故人も乏しいがその間に市制を敷き鉄道も出来てどれほど変化したかを知るのも一興に相違ない。

瀞峡や木の本方面はもう帰京の期の迫つてゐる今日、今度は見物しないで しまふかも知れない。木の本は鬼が城をまた見たいだけである。瀞峡はまたの機もあらう。今度は途中で長良川の上流に遊んだし、さすがに昨今もう涼気を生じて来たから瀞峡は割愛して惜しくない気になつた。あすこは方哉がもう少し大きくなつたら或は盛夏の候、或は杜鵑花の節でも改めて出直すだけの値があるからである。もう十年経たなければ方哉には山水の美は判るまい、汽車や汽船に乗せて旅行といふのはどんな事やら知らせるだけならもう相当に効果は挙つた筈である。此奴がまた乗り物好きと来てゐるので二三日で飽きるかと思つたのになかなかもう帰らうとは言ひ出さない。いつまでも田舎にゐると満足してゐる。尤もまた船や汽車に乗るのだからと言へば、明日にでも喜んで動くに相違ないからしまつはいい。

 

 ……何やら書きつづけようと考へてゐるところを汽車の通過に妨げられて思索の糸を切られてしまつた。この汽車といふのは屋後一メートルばかりのところを通りぬけて園内を両断して行くのである。自分のゐる部屋は線路から最も遠い別棟だからまだ屋をゆるがすといふ程の勢でもない慣れると気にならなくなるのかも知れないが日が浅いので一時間毎に悩まされる。走り去るばかりか直ぐトンネルに入るといふので一声汽笛を鳴らすから我慢しにくい。車中からよく鉄路の屋後や庭隅に接した住居を見かけて定めし迷惑な事であらうと察してゐたが、それが後年わが身の上にならうとは夢にも思はなかつた。

汽車の件を書き出したら不愉快になつてしまった。汽車の音もやかまし いよりこの不愉快を事新らしく思ひ出させるのである。邸内を鉄路の通貫する顛末はもう拙稿「ふるさと」(木がらしと合せて一篇)に記して悲憤の一端を洩したからここには言はない。唯、老人の話では轟音におどろかされる庭園には山の小鳥も来なくなつて木々の枝には小蜘蛛の巣が一面にかかつてゐるとか。自分は暑さに閉口してまだ庭内は点検してゐないが、夕方涼しくなつて歩いてみると小さな蝶が湧いたやうに木かげに群れてゐた。よく灯を慕うて集る拇指の爪ほどの黒い翅に金の粉のまぶれた奴に相違ない。きのふの夕方も白芙蓉のしべのぐるりを花びらのやうに取囲んで集つてゐるのを見た。これなども何れ、 毛虫を取つて食ふ小鳥が来ないのと、雨の少い今年の気候のせいで蕃殖したのであらう。

この汚い蝶の多いのにひきくらべて烏はとんと見かけない。鳶は川の上で二三羽見かけた。烏は権現様のお使と言はれてその護王の神符(例の起請を書くあれである)の面にも烏の図案がついてゐるのだが、その名物の烏、自分たち子供の頃には毎日夕方は空の黒くなる程群れてゐるのを見かけたものを今度はこのあたりではまだ一度も見かけない。この烏は日露戦争の時も皇軍に従うて遠征したから一羽もみなくなつたと言はれてゐたが、今度も当然腐肉の多い北支の事変の地域へでも飛んで行つたものか、それともやはり鉄道のせいであらうか烏だけではなく雀も少くなつたといふからやはり鉄道の轟音で安住の地を失つたのであらう。我等と同じ身の上と気の毒である。以前は裏山でもよく見かけた猿や狐など汽船の定期航路が出来て以後ぱつたり影を見せない。皆奥山へ退去したのであらうと言はれてゐるから、一時間毎に通る汽車が鳥を驚かして移植させないとは言へまい。人間の狡智を存分に瀰漫させてその外のものを一切おつ払ふのが文明ならこの地も正に文明に近づきつつあるわけである。まあいいや、濁らば以てわが足を洗ふべしとか聞いてゐる。いやな土地になつたらもう二度と見に来ないだけの事ですむ。

 

 八月に入つたら直ぐにもと思つた帰省が一日一日と延びてしまつて用意の旅費を税金にしてしまつたので、改めて旅費の調達にとりかかり、外に方法もないから短篇を一つ草してゐるうちに二十日になつてしまつた。それでも画家で旅行家を兼ねたウヰルへルム・ハイネの日本紀行の、それも祖父が手沢の写本が材料になつて、故郷へ帰省の費用の拈出に役立つたのも有難い奇縁であつた。

 旅費の調達が出来た頃富沢有為男君が来ての話に、水谷清君が郷里へ帰るのについて行くつもりだから、都合では一緒に出発しようと誘うてくれた。水谷氏の郷里といふのは岐阜県下とだけでどこだとも知らなかつたが聞けば県下もずつと山の中で飛騨に近い郡上郡の八幡といふ町であるといふ所請五箇の庄までは行かなくともその附近らしい。富沢君も青年時代、上京前にこの地にゐた事があつたので水谷君について思ひ出を新にしに行くつもりである。都合では同道してはと、水谷君も言つてくれると聞くと、同勢親子づれ三人ではと躊躇しないではなかつたが、場所柄だけにまた用事もなささうな所、機会を逸したくないのと東道の主、も同伴の友も好ましいのに、名物の鮎が 好季といふ餌までついてゐるのに引かれて厚かましくついて行く事にした。二十日の夜十一時四十分出発の列車が名古屋岐阜あたりへつく時刻が好都合にあつて、その列車でさまざまの軍歌や万歳声裡に都を放れた。

 はじめて乗つた汽車の内部とこの窓外の絶叫とに方哉は只あつけにとられてきよとんとしてゐる。第一印象を幾らかでもはつきり受取るやうにとおそ生れながら数へ年六歳の今日までわざとどんな近いところへも乗せてやらなかつたので、汽車といふものは絵本で見る外は人を見送りに行つた序に見ただけで、乗つてみるのははじめである。動き出すと黙つてはゐるが満足の状がありありと顔の上に現れて両親馬鹿を頗る喜ばせる。自分は寝ないつもりであるが方哉は母親に預けて寝台に入れた。大ぶん昂奮してゐたから果してよく眠るかどうか疑はしいと、一時間ほどして行つてみるともうぐつすり眠入つてゐた。家では容易に寝つかないのだが、車上の方が反つてぐあいがいいのかも知れない。自分にもその癖はある。水谷氏は座席の上でぐつすり眠つてゐるらしい。

富沢君は自分の用意に持つて来たらしい荷物を特に僕の背に当てがつてくれたり枕代りにと肘かけの上に新しいタオルまで敷いてくれる深切に自分も身を横へたが、一向睡むくはない。富沢氏は自分を退屈させまいとさまざまの話題を提供してくれる。君はおつきあひのお伽であつたと見えて小さな富士山を見て後夜明け方になるとだんだん話も少くなつて、自づと眠つたらしい。自分は駅々の万歳を一つも聞き洩さないでゐた。その夜の富士山はまことに小さなしかしくつきりしたシユレツトであつた。灰色の夜の曇天のなかに薄墨で描き出されてゐた。その単純な色彩のせいか、大きな夜空より外に比較するものが見えなかつたからか、掌の上にのせて見たい程不思議と小さなものであつた。自分は東海道なら数十回往復してゐるがこんなのははじめて見る。丹那トンネルをぬける事になつて富士山の眺望が悪くなつたとか聞くのは、遠望で小さくなつたの謂かと思はれる、それなら車中は夜の富士に限るわけであらう。何しろ可愛らしく美しかつた。

朝になつて海を見せてやりたいと寝台へ行つて起してやつたがぐづぐづしてゐるうちに海は蒲郡の一端でちよつとのぞき出しただけで大部分夜中に過ぎてしまつた。尤も海は紀州へ行きさへすれば日々いやといふ程見られるからよからう。名古屋で下りて犬山の方からまはつて帰途を岐阜へ出たらといふ予定であつたが、水谷氏はやはり岐阜から入つて自働車といふ案に変更した。但、自働車案は自働車屋にいい運転手が居合さぬといふ理由で取やめになつてやつばり汽車の便によつたがその汽車を待つ二時間を駅前の宿屋で朝飯をとつた。膳上には早速塩焼の鮎がついてゐて富沢君を煩悶させてゐる。

といふのは折角、郡上八幡へ行く途中でつまらぬ鮎は口にしないといふ立前で夜前も沼津の鮎ずしをやめた君であつた。もう本場とはいへ、本場の本場ともいふ八幡までは一尾も口にしないで行きたいに違ひない。しかしこの食膳から鮎をやめるとすると、殆んど食べるものはなくなるであらうから、君の煩悶も察せられるのである。自分は夜前も既に沼津の鮎ずしを食べて追々と佳境に入るといふ方針であ つたからこの点甚だ好都合であつた。鮎といへば水谷君の今度の帰心も一つにこの郷味にかかつてゐるといふ。君は東京の某割烹店で偶々四国の鮎といふものを口にしてこんなハゼ見たいなものを鮎などと称して食つてゐるのはなさけないと発憤したものであるといふ。

 飛騨線を木曾川の左岸に沿うて太田で越美南線に乗りかへると三つか四つ目の駅が八幡であつた。山の中の小さな汽車のなかで一難事が生じた、方哉が水をのみたいといひ出したのである。日常一刻も水なしでは生きてゐられないほど愛用してゐる水である。お湯やお茶やその外の呑み物ではならないといふ我儘である。はじめ一度は怪しげなアイスクリームの冷たさでごまかして置いたが、二度目はどうしても水でなくてはならないといふ。車中には飲用水の用意もない。どんな水だかこころもとないが車中の役員に頼んで水を求めるとやつと大やかんに一杯水をくれた、言ひ出してから半時間もかかったかも知れない。汽車のなかには水があるかといふ事は旅行前から再三念を押してゐたところであつた。大丈夫あると引受けて水筒の用意をしてやらなかつたのは正に手落であつたと親馬鹿ども八幡で何よりも第一に水筒を求めた事であった。

八幡では水谷君の「おにいさま」の水野伊兵衛さんが宅では気兼ねをすると悪いといふので宿をとつて待つてゐて下さつた。水野氏は柳人と号して彩管をも巧みに操り、地方の民芸品の大蒐集を持つてゐるといふ旦那衆で、清君の理解あるパトロンでもある。風来者の礼に嫻はぬ野人を遇して到れり尽せりの好意を示された。或は自宅或は涼しい旗亭に招かれる外には豪雨のなかを車を駆つて近くの絶景に案内されたなど、感謝に絶えないものが多い。景は二里程川上に遡つたところにある祐天峡とかいふ名であつた。名称の記憶はおぼつかないが、好景は今も眼前にある。向への小山の中腹から見おろすと下に大きな洞穴のある巨巌の洞のあたりは深碧の潭になつてゐる。その巌の隣に末が二本に別れた小さな瀑布が落ちてゐるとよりは傾斜のさほど急でない岩の上を走つてゐるのである。奇抜な構図と変化とを示した面白い見ものであつた。

その上にもう一つ瀑があるといふが、この方は割愛して帰つた。ここへの往路で近い山の裾まで低くかかつたあざやかな虹を見た。方哉は虹を見るのもはじめてだからこの上なしのおまけであつたに違ひない。岐阜を出て神戸に出る途中、汽車の窓の煤よけの小さな戸で指をはさんだり、神戸でいつもの扁桃腺炎で八度七分の熱を出したなどの騒ぎもあつたが方哉の初旅は多幸な思ひ出の多いものに違ひない。あらゆる乗り物を利用したなかでも或は酔ひはしないかと内心案じてゐた汽船が最も乗り心地のよいものといふので好評である。その船室の窓から海を見渡していつまで見ていても見飽きないといふあたり、こいつも将来旅行好きになること疑ひなしの代物であ る。

 戦死者の英霊と遺骸とを乗せてお線香の匂を漲らせた那智丸 の一夜は友が島の向ふに十七日ぐらゐかと思はれる赤い月の出を見てから、月下の涼風に波もなく更けて行く甲板上のありさまは、同郷、同窓の青年男女が偶然乗り合せて久濶の情からやがて恋愛を囁かうと用意してゐるらしいのや、その他は紙も尽きたし、改めてスケツチでも書くことにしよう。眠れないままにそのつもりで気をつけて見て置いたところが多いのだから。

底本:『定本 佐藤春夫全集』 第21巻、臨川書店

初出:1937年(昭和12年)10月1日発行の『いのち』(第五巻第一〇号)に掲載

(入力 てつ@み熊野ねっと

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2015.9.11 UP

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