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天一坊の話

雑賀貞次郎『南紀熊野の説話』

大岡さばきでお馴染の天一坊は実は紀州田辺の生まれだ。これは恥さらしだから、だまっている方がよさそうだが、ちょっと話の種にお喋りしよう。

芝居や講談では、天一坊は和歌山在感応院の小僧で宝沢といい、村のお三婆の娘が紀侯吉宗(後ち将軍)に寵愛され、その胤を宿したので証拠にお墨付と短刀を授けられ家に帰って子を生んだが産後女も子も死んだ。宝沢はお三婆からそのことを聞き、婆を殺し証拠の二品を盗み、感応院をも毒殺して逃げ、江戸に下り将軍の落胤と称し赤川大膳などよからぬ輩にとりまかれ、大名に取り立てられると大法螺を吹いたが、大岡越前守に素性を見破られたことになって居るが、それは所謂実録作者の創作らしい。

天一坊の母は、紀州田辺のもので、名は伝わらず不明であるが、和歌山の紀藩士某方に女中となっているうち、主人の手がついて妊娠し、手当金を貰うて郷里に帰り半之助という男の子を生んだ。半之助即ち天一坊だ。母親は「白歯で子持ち」だから、誰も嫁にと望みてがない。そこで半之助が四歳の時、子供を負うて江戸に下り叔父浅草橋場総泉寺の住僧徳隠に頼り、世話する人のあるままに半之助を連れ子にして浅草倉前の町人半兵衛に縁付いた。半之助は継父の厄介で育つうち十歳の時母親は病死し、半兵衛も身代が悪くなったので、半之助は叔父徳隠に引取られてその弟子となった。

母親は在生中、半之助に向い「その方は由緒あるものの胤であるから、何とかして武家にしたい」
としばしば物語り、由緒書もあって徳隠が預かっていたが、享保六年の火災に消失してしまった。その由緒書のうちに源氏ということが書いていたというので、徳陰は半之助の僧名を源氏坊天一とつけたという。ところが徳陰も享保十二年に死んだので、天一はつてを求めて修験者堯仙院の弟子となったが、そのころから天一坊は酒を好み、酒癖が悪く、とても不良性を発揮しだしたので堯仙院も持てあまして品川の常楽院へ預けた。常楽院即ち赤川大膳で大山師であり策士であったから、天一をロボットにして将軍の落胤と言いふらし、追っつけ大名に取りたてられるはずというので、思惑好きの商人や仕官を求める浪人たちから、金を集めてうまくやっていたのを、検挙されたものだという。

天一坊のことは、瀬田問答、柳営日記、享保世説、温故実録等にも記載あるが、月堂見聞集、承寛雑録、世説海録、枯木集、土屋筆記、天一坊事蹟、享保目録等により以上が事実でありかつ大岡越前守のかかりでなかったことも明白だという。要するに天一坊は不良少年であり詐欺師のロボットだったに過ぎぬ。こんな男を出したのは土地の恥だが、今更何とも致し方がない。   (昭和七年三月、紀南の温泉)

 

(入力 てつ@み熊野ねっと

2017.4.27 UP




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