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補陀洛山水葬

雑賀貞次郎『南紀熊野の説話』

那智浦
那智浦

熊野那智浜の宮補陀洛寺住僧の水葬のことは昔から珍らしい事として語りつがれて居る。昭和五年五月十八日同寺に詣でた時、住僧からそのことを聞きたいと思ったが、何分和歌山県下の新聞記者団諸君と同行であり住僧は盛んに宣伝的説明に努められる折柄だったので、ナニも聴く暇がなく終わりその後も機会を得ないのを遺擁とする。同寺は紀伊続風土記に、「草創の時代詳かならず。東鑑に貞永二年五月二十七日武州参御所給帯一封状被披覽御前令申給曰去三月七目熊野那智浦有渡干補陀洛山之者、号智定坊、下河辺六郎行秀法師也。故大将家下野国那須野御狩之時大鹿一頭掛下勢子之內、幕下撰殊射手召出行秀被仰可射之由、仍雖厳命其箭不中鹿走出勢子外、小山左衛門尉朝政射取畢。仍於狩場逐出家逐電不知行方、近年在熊野山日夜読誦法華経之由伝聞之処、結局及此企、可憐事也(中略)彼乗船者入屋形之後自外以釘皆打附無一扉、不能観日月光只可憑燈三十箇日之程食物並油等僅用意と見えてこの地より渡海すれば補陀洛山に行くという事古くより浮屠のいい出たるより終に寺を建てて補陀洛山と号するならん。当寺の住僧、昔は臨終以前に船に乗せて海上に放ち補陀洛山に行きしという。按ずるに補陀洛山の事仏経に載せて観音大士の霊場とするより愚俗その説に迷いてそこを以て極楽浄土となし下河辺行秀の如きもこれを信じて渡海し代々の住持も皆その跡を追うという」と記し、明の田藝蘅の留青日札の補陀洛山の記を掲げて惑を解くとしている。

この続風土記の考説はほぼ首肯されるがなお駄足を加えたい。弘化に板行した同寺の略縁起には「裸行聖人は孝徳から仁徳の御宇まで数百歳の寿を保ち、那智山に苦行し後ち南方補陀洛山へ渡海した。文武の御宇、日本第一補陀洛山の勅額を賜い、寛和中花山法皇の行幸あり、また法燈国師もここにて修行をした」とある。お寺の縁起などいうものは、概してこんな風に書くものらしいが、裸行上人のことは冥応集に出て居り、これだけでは草創はいつ頃であったか、要領は掴めない。紀伊続風土記高野山之部巻之十五の寺家の五にある補陀洛院の項および同巻之三十七の高僧行状之部の教算伝によると教算上人、名は勝忍、州の態野の人、初め那智の浜の宮に住む、時に海上に夜々光るものあり、上人船を浮かべてこれを尋ね、一体の観音像が海藻の上にあり、波間に浮んで光っているを見て、これを拾いて帰ったが、御丈け一寸八分の霊仏であった。上人、浜の宮に補陀洛寺を草創して安置したが、一夕観音夢に上人に告げていう。「吾れはこれ南海補陀洛山の教主である悲願に乗じ比土を遊化するために来たった。高野山に居りたいから速やかに送れ」と。 上人奇異の思いをなし直ちに尊像を奉じて高野山に登り、千手観音の巨像を刻み霊仏をその髻中に安置し補陀洛院落院を創立したとある。

高野山の古文書中に弘安二年三月二十一日の上人自筆の寄進状があり、弘安年中実在の人たるは確かだ。これによると那智浜の宮の補陀洛寺は教算により鎌倉期に草創されたものらしいが、草創年代の詮議はこの文の目的でないから措く。さて南海補陀洛の浄土に往生すべく、渡海することはかなり古くからのことで、「天平宝字五年に作られた法隆寺流記資材帳に補陀洛山浄土画像一舗とあり、奈良朝に既にその信仰ありしこと明かだという。発心集に賀東聖が補陀落山に生身の観音菩薩を拝すとて、土佐より船出したことを記しあり、藤原頼長の日記台記の康治元年八月十八日の条に権僧正覚宗の談として、同僧正が少年で紀州那智にいるころ 、一人の僧あって現身に補陀洛山に新参するとて、船出したのを見たことを記している」という。(昭和六年七月犯罪科学二巻八号、中山太郎氏本朝変態葬礼史)前に掲げた河辺六郎行秀が、一朝、鹿の射損じから武士の面目を失い、この世に望みない廃れ者となって、遂に那智の浜から渡海したのは、それから後のことだ。

要するに平安朝時代から鎌倉期の初めにかけ、こうしたことかなり行われ、補陀洛寺もその頃に草創され、遂に那智浜の宮が渡海往生の本場となった。ものであるまいかと思う。元禄になった紀南郷導記には「補陀洛寺と云真言宗有、比寺南方無垢世界に相対すと云り、住持末期に及時海上に見え渡りたる綱切嶋へ舟に乗行て息絶ると也、則海底へ沈葬ると云也」とある。和漢三才図会には「常寺住持臨命終時乗舟行綱切嶋至息絶沈葬於海中、比自古旧例、以為往補陀洛観音浄土也」。斉諧俗談はこの三才図会の記をそのまま抜き書きしている。これらによると補陀洛山に生身の観音菩薩を拝し、その浄土に往生すべく志望するものが、生きながら舟に乗って海に出たのが、徳川時代に入ってからは補陀洛寺の住持のみが臨終に綱切嶋へ移され息絶えて水葬されることになったものらしい。いま青岸渡寺所蔵の記録によると渡海往生の人々を左の通り記している。

       浜之宮補陀洛寺佳職左之通

一、補陀洛寺住職の儀は渡海上人と申、代々寺附之上人号にて渡海上人の因縁は書籍に相乗り渡海の願主有之発達望候得ば時の渡海上人引導し先達いたし則錦の浦より五十丁南の海中に嶋有是を補陀洛嶋とも綱切嶋とも申彼嶋へ渡補陀洛山観音浄土へ往生之儀式相済先達同行共致入水候其節は額札へ渡海何上人と書印し補陀洛山千手堂へ納来候□の節は三所権現観音宝前において深秘之儀式等只今に有之候天文年中迄諸国より渡海之願主有之則千手堂に右之額札名前並同行者付左之通

一渡海高発上人  天承十六年十一月
一同 祐尊上人  永享十三年十一月
一同 盛祐上人  明応七年十一月此時同行五人
一同 梵鶏上人  弘治二年十一月此時同行十八人
一同 足駄上人  享禄四年十一月
一同 光林上人  天文八年十一月此時同行十六人
一同 正慶上人  天文十年十一月此時同行十人
一同 善光上人  天文十一年十二月此時同行十二人
一同 日誉上人  天文十四年十一月此時同行五人
一同 清信上人  年号不知十一月
一同 清源上人  年号不知十一月
一同 心賢上人  年号不知十一月
一同 清雲上人  寛永十三年三月
一同 良祐上人  慶安十五年八月
一同 清順上人  寛文三年九月
一同 順意上人  貞享六年六月
一同 清真上人  元禄六年四月
一同 宥照上人  享保七年六月
右之通本願中己亥従住古上人法印号之官位を進し任職致来證蹟なり

以上は和歌山県誌から抄出したのであるが、更に東牟婁郡誌によると、紀伊国名所図会には左の渡海僧を挙げているとある、ここに孫引きする。

伝云人皇五十六代清和天皇貞観十年戌子十一月六日慶龍上人補陀洛渡海す是妙地
明応七年戌午十一月十五日盛祐同行五人渡海す
弘治二年丙辰十一月二十一日梵鶏上人同行十八人渡海す
天文八年乙亥十一月二十二日光林上人同行十四人渡海す
天文十年辛丑十一月二十日正慶上人同行十人渡海す
天文十一年壬寅十二月二日善光上人同行十二人渡海す
天文十二年癸卯十二月十心賢上人同行六人渡海す
天文十四年乙巳十一月二十四日日誉上人同行五人渡海す
其後金光坊という住僧の時例の如く生きながら入水せしむる甚だ死をいとい命を惜しみけるをしいて海中へ押入れける。彼僧入水せし所を今に金光坊嶋とて綱切嶋の辺りにあり。その後は存生する時を止めて今は住僧入滅の時にその儀式ありと云う

補陀洛寺住持の渡海は六十一歳還暦の年に行うたとの話を聞いた。十一月に行われるを例とする如く見えるが、その理由はまだ知るを得ぬ。とにかく補陀洛山観音に信仰のあこがれが、渡海往生を願うものを生じ、那智浜の宮がその解纜場所となり、一時は補陀洛寺はその儀式を司どり、後ち同寺の住持にのみにその風残り、それも還暦の年に行うたのが後ち臨終と移り変わったものと見える。

南方先生のお話
明治三十七年夏、予浜の宮補陀洛寺にゆき甚しく零砕せる古文書をそろえ写せり。例の水葬の次第を書きたる過去帳を見るに誉撃上人の名二度出あり。それより考うるに同行とは水葬のとき伴いその嶋まで行き見届けたる人を云いしなり、水葬終わりて同行僧は帰りしなり、水葬さるる戸に同行殉死せしにあらじ。

故中村公平氏(那智村天満の小学校長か何かなりし浜の宮の生れなり、甚だ大志ある才物なりしが強欲にて頓死せり)話しに住僧水葬されし霊がヨロリ魚(学名プロメディクチス、プロメテウス)に化すという。因て以前はこの魚ミキノ崎と潮の岬にしか住まずといいたリ(水葬戸の流れ行く海、この間に限るという)。又、これを嫌うて満足な人は食わざリし。今は小田原辺にても多くとれると田中茂穂博士より聞けり。小田原でも紀州の南地諸処でも蒲鉾にし煮ても食うなり、但しヨロリはあまり旨きものならず、坊主が死んで化すると聞く故かあまリゾッとせぬものなり。

 

(入力 てつ@み熊野ねっと

2017.4.23 UP




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