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滝尻懐紙の話

雑賀貞次郎『南紀熊野の説話』

明治四十年七月十一日 明治天皇陸下が東京帝国大学へ行幸の際『熊野懐紙』を天覧に供え奉り、三浦周行博士が御説明申上げたのは史学界の記録に特筆されている所だが、この熊野懐紙は後島羽天皇さまが熊野参詣の途中、滝尻王子で御催しになった和歌会の詠草なのである。

態野懐紙には二つある。一つは滝尻王子での和歌会のもので、この懐紙のうち、寂連法師の書だけは加賀大聖寺藩主の前田子爵家(加賀百万石の分家で十万石)に伝わり、その他は若狭小浜藩主の酒井子爵家(十万石)に伝わっている。明治天皇の天覧あらせられたのは即ちこの両家に伝わるものである。もう一つは真宗西本願寺の大谷伯爵家に伝わるもので、これは切日王子での和歌会の懐紙である。どちらも熊野懐紙というが、これを別つために前のを滝尻懐紙、後のを切目壊紙ともいうという。まだこの外に近衛公爵家には藤代和歌会の懐紙を伝えていると聞く。

西本願寺に伝える切日懐紙を、かつて文部省が国宝にしたいと同寺へ交渉したところ、寺では役員会議を開いてお断りした、それほど国宝以上に大切にしているので、金のことをいうといかがわしいが時価三十万円と言われている(日本名宝物語)、滝尻懐紙は小杉榲邨博士の注意で三浦博士等の発見したものだが、社寺の伝蔵ならば疾くに国宝となっているものだ。

後鳥羽天皇さまは建久九年御位を御譲り遊ばされてから後、承久の一□官軍利あらず、順徳院と名を替えさせられて「われこそは新嶋守り」と隠岐の嶋に遷らせ給うまで、毎年欠かさず熊野へ行幸遊ばされた。その熊野行幸は熊野をお気に入られた為めでもあり、北条討伐の策謀もおわしたのであろうと史家は説く、熊野の別当一族が、承久に京方にお味方申し上げたのも、それらの為めであろうとの事だ。さて、後鳥羽天皇さまは和歌にはことの外に御堪能で、御議位の後、和歌所を院の御所に設けられ、一代の重なる歌仙を寄人とし和歌会、歌合の催あり撰集のこともあった。殊に斯道の遺老藤原俊成が和歌所で九十の賀を賜うたのは当時の一佳話だ。かかれば歌人の輩出したのは勿論であり、行幸の折には道々で和歌会の御催しあったは申すまでもない。さて熊野懐紙のうち切目懐紙は正治二年十二月四日、後鳥羽上皇さま、第二回目の態野行幸に切日王子で御催しの和歌会のもので、歌題は『遠山落葉』と『海漫眺望』。滝尻懐紙は同年同月六日、即ち初目から二日後に滝尻で御催しの和歌会のもので、題は『山河水島』と『旅宿理火』。詠み人は上皇をはじめ奉り当時の大政治家で大策士だった内大臣の土御門通親、時勢の寵児で後ち鎌倉幕府の背景で内大臣に進んだ西園寺公経、新古今集の撰者藤原家隆、歌仙と知らるる寂蓮法師、藤原長房、源家長などのお歴々で、料紙は懐中の漫畳紙を用いているが、一番下に置かれたと思わるる右衛門少尉源季景の懐紙の裏に「滝尻王子和歌会、正治二年十二月六日」と記されている。

◉その折の和歌

 御鳥羽院御製
   詠二首和歌
    山河水鳥
 おもひやるかものうはけのいかならむ しもさへわたるやま河の水
    旅宿埋火
 たびやかたよものをちばをかきつめて あらしをいとふうづみびのもと

   詠山河水鳥和歌       右近衛大将通親
 たにがはのいわまのこけや おしどりのたまものふねのとまりなるらん
    旅宿埋火
 うづみ火のあたりのみかはかりいをさすかきねのむめも春しらせけり

   詠二首和歌         参議左近衛権中将藤原朝臣公経
    山河水鳥
 やまかはやいはまのみづのかけとぢて こほりにうつるすがのむらとり
    旅宿埋火
 くさまくらあさたつかぜもをとさへて なをうづみびのもとはわすれず

   詠二首和歌         春宮亮藤原範光
    山河水鳥
 やまかはのいはうつをとにをどろかで いかになれたるおしのうきねぞ
    旅宿埋火
 うづみびのあたりはふゆのくさまくら もえいづるはるのけしきなるかな

   詠二首和歌         右中弁藤原長房
    山川水鳥
 すみなれぬあちのむらとりさはぐなり いしぶりがはのなにやおどろく
    旅宿埋火
 うづみびのあたりはふゆぞわすらるゝ たびのそらにやはるのきぬらん

   詠二首和歌         能登守源具親
    山河水鳥
 いはたがはいくせのなみにすみなれて わたれとのこるおしのひとこゑ
    旅宿埋火
 ならひきぬあさたつほどになりにけり あたりによはるよひのうづみび

   詠二首和歌         散位藤原隆実上
    山河水鳥
 やまかげやをちくるみづのせをはやみ よどみにつどふあちのむらとり
    旅宿埋火
 くさまくらあくればさゆるたびのよに まづたちやらぬうづみびのもと

   詠二首和歌         散位源家長
    山河水鳥
 いはたがはわたるせごとにたちさはぎ うきねさだめぬかものむらとり
    旅宿埋火
 うれしくもけぶりのあとのきえやらで あさたついまもねやのともしび

   詠二首和歌         右衛門少尉源季景上
    山河水鳥
 すみかぬるおしのこゑのみひまなくて つらゝによはるたにがはのをと
    旅宿埋火
 うづみびのまくらにちかきたびねには はらはぬそでにしもぞきえゆく

以上は橋本経亮の橘窓自語によったが経亮はある人の写しを見て控えたと書いてある。大正に東京で展覧した原本によると内ち二首ほどは二三字相違があったと聞く。

当時の熊野まいりは、水垢離のことあり、精進潔斎であり、王子々々での奉幣などあり、所々の御駐泊所も設備全からず、供奉もなかなか楽ではなかったらしく、殊に寒中の行幸は一トしお困難だったことは公経その他の旅宿理火の詠によっても察せられる。この懐紙のことを思い、そのかみ の滝尻御泊のことをしのび今の滝尻王子のさまを見れば、そぞろに感慨に打たれるものがある。

(昭和七年四月、紀南の温泉)

 

(入力 てつ@み熊野ねっと

2016.2.11 UP




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