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熊野神徒の神輿訴訟

雑賀貞次郎『南紀熊野の説話』

後崇光院の御日記の『看聞御記』のうちに左の一節がある。

応永二十五年四月七日晴。聞熊野神輿御動座被訴守護云々

同年四月二十四日晴云々抑聞熊野神與奉振、紀伊国田那邊ニ発向、守護昌山右衛門督入道於此所防戰、然間田那邊ニ神輿振棄、熊野勢二里許引退、守護勢乗勝追懸、於山中嶮岨熊野勢返合責戰之間、守護勢打負、或海中ニ沈、死者不知其数、於山中被討侍名写七十余人、其外雜兵不知数云々、河内勢若干被討了、紀伊国人裏返守護勢打負云々、畠山陸梁重可下討手之由申、但神訴之間、自公方御成敗被成御教書了、神訴落居云々、濫触神領守護違背之故云々、畠山受病神敵之故歟

畠山右衛門督入道とは左衛門督を正しとす、字は満家、入道して道瑞と号す。畠山基国の長子で 従五位下尾張守から左衛門督、従五位上に進み応永六年大内義弘を堺に討ち功により紀伊に封ぜられ同十七年管領となり一度び退いて入道したが後ち再び管領となった人で河内勢とあるは畠山の旗下である。

さてこの御記の文によると、応永二十五年四月熊野の神人が神輿を奉じて訴訟すべく、田辺まで出て来たのを守護の畠山勢が防戦した。熊野の神人勢は神輿を棄てて二里ばかり退いたのを、守護勢勝に乗じて追撃すると、山中嶮岨のところで熊野勢引っ返し来り、畠山勢に付いていた紀州人中にも反するものがあって、畠山勢が散々に討たれた。この原因は熊野神領のことについて畠山側に違背のことあった故であり、満家が病を受けたのも神敵の故かというのである。

熊野勢が田辺から二里ばかり引退いて山中の嶮岨に拠ったというのは、旧熊野街道に当る汐見峠に退き拠ったのであるまいかと思う。豊公が紀伊の土豪を討伐した際も土豪湯川勢の敗残兵がここに拠って防いでいる。地勢の利用は応永も天正も大した相違はないと思う。

さて熊野本宮は明治維新の神仏混淆禁止の騒ぎ——即ち社家の離散と、その後明治二十二年の空前の大水災で、文献の類は殆んど一物も残さず、全く失われて終ったのでこの神訴のことも調べるものがない。田辺は豊公の□平で散々にたたき付けられ、その後の浅野氏領知時代のことすら記録に残るもの極めて乏しく、ただ愚管抄、平治物語等によって平治の乱に熊野別当が田辺で清盛を援けたこと、平家物語、源平盛衰記、吾妻鑑などによって源平戦に熊野別当が最初は平氏に通じ後ちに源氏に党したこと、承久の役には熊野人多く京方に党し惨敗したこと、太平記その他によって南北朝時代には南朝、北朝まちまちに土豪が味方したこと、田辺の目良氏系譜及び伝蔵の古文書によって畠山の河内教興寺の戦に日良一族に戦死者あったこと、湯川記(俗書)などによって豊氏南征により湯川、山本等の土豪が滅びたことを知り得る外は、高野山文書によって高野山領南部荘のことを知り得るに過ぎぬ。

現に田辺の闘鶏神社に伝蔵する明応五年五月青蓮院准三宮御筆の田辺庄新熊野十二所権現(今の闘鶏神社)の勧進序の文中に「然去明応四季卵月比諸軍勢乱入而破却社壇壊取瑞籬之條警難至極也」とあるが、この明応四年春の兵剣さへ何であったか、この勧進序の以外に伝えるものがないから全く不明である位だ。だからこの応永の熊野の神訴も看聞御記の記載以外には何も残っていないから、南紀としてはかなり大きな争いであったに拘らすその経過も結末も知るよしが無い。

たた当時、熊野三山の勢力昔日の如くならず而して畠山側は時の勢いに乗じ、領地に関する契約を無視し頻りに神領を脅かしたので、熊野の神徒はその壓迫に堪えず、遂に神輿を奉じて訴訟せんとするの挙に出で、畠山勢と正面衝突をしたものであらうと察せられる。熊野の神徒もその危急、争論に際しては神輿を奉じて強訴の挙に出たことは、それより三百四十六年前の永保二年十月にもあり、神輿騒ぎは南都北嶺のみでないことが分る。

(昭和七年十月、紀伊鄉土二号)

 

(入力 てつ@み熊野ねっと

2016.1.6 UP




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